特集の副題は「知のインフラの活用法と可能性を探る」
特集の記事は以下のとおり:
- 知的立国の基盤としての図書館とその可能性 片山義博
- 市民生活の活性化を支援する図書館サービス 小林隆志
- コミュニティにおける公共図書館の位置づけ 吉田右子
- ネット時代の大学図書館活動の新機軸 杉田茂樹
- 検索という迷宮 原克
- 記憶術とトポス 桂英史
- 図書館は宝の山 石川慶蔵
- ビジネス支援から生まれたシャッターガード 沢田克也
- 多文化社会図書館サービスとは 吉田右子
- ヴンダーカンマーとしての図書館 小宮正安
図書館関係者は、『言語』9月号を買おう!
(元日本ハムの新庄さんが数年前の下着メーカーのCMで「ちゃんとした下着を着よう!」と言っていた、その口調で)
以下は、感想を二つ。
まず軽いところでは、片山さんの記事「知的立国の基盤としての図書館とその可能性」で「わが国」という言葉が使われていること(まあ政策文書だと思えばいいのだけれど、『言語』の読者には日本が「わが国」でない人もいるのだから、編集方針として調整した方が良いのではないか、という感じ)。
もう一つ、吉田さんの「コミュニティにおける公共図書館の位置づけ」で、現実性・歴史性と理念性の関係(条件節の有無)が曖昧なままお話しが進んでいること(学校図書館関係の人が米国の動向を参照するときにもよくあることだけど)。
例えば:
実はアメリカ社会にとって図書館の最も重要な役割は、民主主義を支えることにある。
むろん、USA愛国法に対するALAの声明や対応、マッカーシズム時代の図書館の抵抗など、本当に物理的・具体的なところで確かに米国の図書館は民主主義の理念を体現したとも言える具体的な行動を取ってきた(しかし「民主主義の理念」については、カール・シュミットの民主主義と自由主義の区別なども踏まえつつ、もう少し詳細に考えたほうがよいのではないだろうか)。
にもかかわらず、それを抽象として語り始めた途端、疑念が生ずる。関連する二点だけあげよう。一点目。今の米国社会において、民主主義は機能しているか。二点目。自由権的人権と社会経済権的人権に対応するようなかたちの問題設定はどこにいったのか(iSummitでもそれは一つの大きなテーマだった)。
抽象の世界でif節を保ちながらものを考えるならば、理念の形式化とモデル化を徹底してやればよく、現実の事例への言及は論の粒度と鋭さを減ずることになろう。一方、現実の事例に言及しながらif節を取り去らない抽象の世界にとどまるのは、悪くすると現実が持つ具体性の悪用にならないだろうか。
補足:メタレベルでの対比として、金子勝『閉塞経済----金融資本主義のゆくえ』ちくま新書.

