つい先日、手元に届いた本。冒頭のAcknowledgementで名前をあげられる名誉に浴し、裏表紙にblurbを書いたため、いわゆる「利害関係者」であるとして学会誌などに書評を載せる立場にはなりえないだろうから、ここに書評めいたことを書いておこう。自分のブログに書くことの自由さを利用して、それも、おそらくは著者の意図とも離れて、いささか独断的に。
人は、生まれたときには言葉を持っていない。それがいつの間にか、言葉のある世界に生きている。この移行については言葉を既に持っている側から、言語習得、言語発達などなどの言葉のもとで、数多くの説明がなされてきた。ところで、次のような企てを希求してみるとするとどうだろう? すなわち、言葉のない世界から言葉のある世界への移行を、まさに移行している存在そのものの観点から、その体験に即して表現すること。
第一に私たちのほとんどは既に言葉のある世界に棲まっている以上、言葉のない世界から言葉のある世界への移行そのものにもはや触れ得なくなっている。
少数の共感覚者ならばどうだろうか? 少なくともその一部は、移行期の世界をそのまま維持しているからこそ共感覚を有しているのではなかろうか? ここでも、表現することをめぐる決定的な問題がこの試みを阻む。私たちはいずれにせよ、言葉で表現しなくてはならない。そのように表現されたものはどうしても、既に言葉を持っている側からの表現にしかなり得ないだろう。
では、どうすればよいのか。
本書は、ほとんどありうるかぎりもっとも鋭敏に言葉の形式を知覚しうる著者により、とはいえいずれにせよ言葉を有する世界の側から書かれた本である。その意味で、例えば言語学や形式言語理論、あるいは上で述べた問題関心との関係で言えば脳科学や言語習得や言語発達に関するいわば「科学的」な研究と、その大枠を共有していると言っても必ずしも間違いではない。
二つの点が、それにもかかわらず、本書の突出した孤独を特徴づける。
第一に、言葉という存在への驚きあるいは苛立ち。フーコーの苛立ちを思い起こそう。
記号についての反省や分析を見てがっかりし、ナイーブだなと思ってしまう点は、記号は世界という形象において蓄積されたり、人間によって構成されたりして、つねにすでにそこにあるのだ、と前提してしまっていることです。諸記号の存在そのものは、けっして問われない。記号があるということ、刻印[マルク]や言語があるということ、それはいったい何なのでしょうか。
必ずしも前景化されてはいないものの、こうした驚きあるいは苛立ちが一貫して本書を貫いている。
第二に、その驚きあるいは苛立ちを普遍的な表現に置き換えるために必要な、精密な手続きと道具立て、そして圧倒的にシャープな形式化。文系諸学の関連研究において少なからぬ場合、俗化された代数的構造に止まりそれ以上のところはしばしばいささか杜撰なレトリックで埋められざるを得なかった「諸記号の存在そのもの」をめぐる記号の側からの問いに、その問いが少なくとも21世紀において絶対的に要求する精密な手続きをもって取り組んでいること。
これらによって、記号における意味するものと意味されるものにおける意味するものの即物的な極めて生々しい露呈、ラムダの導入、fixなど、いくつかのところで、本書を読む私たちは、記号の存在を当然のものとして読み進めながらも、記号の存在そのものをめぐる問いが問われていることに思いがけず気付かされる。
あくまで言葉がある世界の側から書かれた本書は、言葉のない世界から言葉のある世界への移行を、まさに移行している存在そのものの観点から、その体験に即して表現することを実現しているわけではない(それはもともと本書の目的でもないであろう)。それにもかかわらず、本書は言葉のある側から、その移行を略奪するのではなくその移行にあるいは移行の体験の欠落にいわば「触れる」ことに部分的に成功してもいる。
言葉のない世界から言葉のある世界への移行をめぐる、移行者そのものの体験。それは欠落ではなく、「まごうかたなき現実としてありながら」私たちからは「その存在を触知するすべを奪われた」ものであり、言葉のある世界から、そのまごうかたなき現実は、柔軟でありながら壊れやすい不透明な何かで隠されている。そして、多くの場合、言葉のある世界に棲まう私たちは何かが隠されていることさえ気づかないでいる。
こんな風に言うことができよう。気づかぬままやり過ごしたり、また気づいたとしてもその不透明な存在を破るにあたって言葉のある世界が当たり前としている道具で不注意にそれを扱い、その裏側にある世界のかたちまで言葉のある世界に即して変形し破壊してしまうことがほとんどである中で、本書は例外的に、繊細な手つきでその不透明な存在を壊れないようにそして向こう側にある世界のかたちに沿うようにゆるやかに変形しつつかろうじて向こう側の世界のかたちを不透明な存在の上に反映させ触知することに成功している、と。
繊細であると同時に凶暴でもある本書の論に応じて本書を読みえたとき、私たちは、記号が記号であることへの驚きと、また同時に記号が記号でなかった世界へのいかんともしがたい懐かしさとに、胸を衝かれる。
プログラム言語、自然言語などの狭義の「記号」だけでなく、書物やメディアなどあたうる限り広い範囲で捕らえた「記号」に関わるすべての人に。
日本語版は東大出版会から近刊の予定。

