一方、少なくとも21世紀には(あるいは一部の人を除いて、だろうか)、言葉が意味を持つことに驚いた経験、言葉が意味を持ってしまうことに(相手に誤解されるといったところでではなく)苛立った経験を表現しようとしたとき、論理的にシャープにアプローチせざるを得ない(またそれ以外の表現では自らも満たされないこともあるだろう)。
けれども、まさに言葉が意味を持つことに驚いた経験、言葉が意味を持ってしまうことに(相手に誤解されるといったところでではなく)苛立った経験を表現しようとしているが故に、必然的にその論理的アプローチは、いかにシャープであろうと、表現されたとたんに、おそらく、言葉が意味を持つことに驚いた経験、言葉が意味を持ってしまうことに(相手に誤解されるといったところでではなく)苛立った経験を持たずに(あるいはそれをその場では切り離して)論理的にシャープに読めてしまう人にとっては奇妙なものに映る可能性が高い。
まさに言葉が意味を持つことに驚いた経験、言葉が意味を持ってしまうことに(相手に誤解されるといったところでではなく)苛立った経験を表現しようとして書かれた言葉は、言葉である限り、そして論理的である限り、言葉が意味を持つことに驚いた経験、言葉が意味を持ってしまうことに(相手に誤解されるといったところでではなく)苛立った経験のない人にも読めてしまうし、言葉が意味を持つことに驚いた経験、言葉が意味を持ってしまうことに(相手に誤解されるといったところでではなく)苛立った経験のない論理的にシャープな人にも論理的にシャープな観点から読めてしまう。
書かれた言葉がもともと表現すべく求めていたものを、すべて落としながら。
書いてゆくその場から、自らそれを読むときには言葉が意味を持つことに驚いた経験、言葉が意味を持ってしまうことに(相手に誤解されるといったところでではなく)苛立った経験のない人が読むように書かれた言葉を読んでしまうのは、書かれた言葉の問題なのか。とはいえ別のときにはその言葉をまさに言葉が意味を持つことに驚いた経験、言葉が意味を持ってしまうことに(相手に誤解されるといったところでではなく)苛立った経験を表したものとして受け取ることができる場合もあるのだから、必ずしもそうであるとは言えない。
では、他の人がそのように読んでしまうことは? そしてほとんど誰もがそのように読んでしまい、そのように読まない人は言葉が意味を持つことに驚いた経験、言葉が意味を持ってしまうことに(相手に誤解されるといったところでではなく)苛立った経験を持っている人だとすると、そもそも、言葉が意味を持つことに驚いた経験、言葉が意味を持ってしまうことに(相手に誤解されるといったところでではなく)苛立った経験を言葉で表現することにどのような意味があるのだろうか。

