2011年03月01日

決して些細でない発見!

発見しました。当然見えていてしかるべきだったのですが、本日、ようやくの発見。

TOILET



TO LET

は、一文字しか違わない!

HOUSE TO LET 貸家
HOUSE TOILET 家便所

TOILET CLEANING SEAT トイレ拭きシート
TO LET, CLEANING SEAT お掃除シート貸します

なんということでしょう。そっくりじゃないですか。

二語と一語だから見つけにくい、というよりもむしろ、TOとLETの「間に挟まる」空白というものの基盤的後景化こそが核心にあるのだろう。

「印刷革命」と言うが、紙の大量生産が可能になる前は、印刷物の流通は本当に限られていた。トイレットペーパーが登場する前はどうしていたのだろう。。。固かったから紐でよかった、トカ。
posted by いんぷうしゃあ at 18:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語基礎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月09日

『記号と再帰』におけるソシュールとパース

『記号と再帰』第3章について。

恩寵の瞬間に立ち現れ、その後懐かしさが向かうことになるある存在を、とりあえず風景と呼ぶことにしよう。

すると、ソシュールの2元論とパースの3元論をノスやエーコのように対応付ける人には、もしかすると、記号をめぐる風景が存在しないのではないか。

このような仮説を立ててみることができる。

新井さんとの雑談に刺激されて。

補記:この風景を経験の側に置くか記号の側に置くか。
posted by いんぷうしゃあ at 19:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語基礎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こんどのパーティー、どんなキノコにしようか。

こんどのパーティー、どんなキノコにしようか。Google 画像検索を使って色でさがそう。

1. 「きのこ」でGoogle検索
2. 左から「画像」をクリック
3. 左の色から茶色をクリック

あら、いやだわ。わたくし、茶色から選びたいのよ。ベニテングタケは茶色とはいわないわ。。。
posted by いんぷうしゃあ at 11:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語基礎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月10日

サントリー学芸賞

英語版Semiotics of Programmingについて紹介を書いたことがある田中久美子さんの『記号と再帰』、大川出版賞に続いて、サントリー学芸賞を思想・歴史部門で受賞した。

これで、情報系と思想系という二つのメジャーな出版賞を受賞したことになる。

何と、岩井克人さんの選評もついて、すばらしい。

おめでとうを言うのはこれで2度目になりますが、改めて、本当におめでとうございます!
posted by いんぷうしゃあ at 18:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語基礎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月08日

言語と言語表現

「自然言語処理」という言葉は「言語」という言葉の曖昧性がゆえに、誤解を招く。

一方で、「言語」というと、とりわけ「言語」に何らかのかたちで関わる研究をしている人たちにとっては、「日本語」とか「スワヒリ語」といった個別言語の体系あるいはその背景にあると想定される有限の語彙と文法規則に代表される規則などが強く想定される(それは認知や脳へ行く)。

他方で、自然言語処理は、およそ「処理」である以上、そのような意味での言語をいささかも対象とするものではない。処理の対象となりうるのは、生成の場合も含めて、あくまで表現された限りでの言葉である。

ここでは、本来、言語は、言語表現を操作するために必要な限りにおいて導入されざるをえないこともなくはないだろう補助的な概念であり、その逆ではない。ところが、少なからぬ場合に、言語表現・コーパスは、言語を描き出すためのデータであるというかたちで、その関係があたかも逆であるかのように捉えられている。

まるで、例えばAさんが語った言葉をAさんの言葉として聞くのではなく、「日本語」として聞くことが可能であるかのような、倒錯。

もちろん、およそ処理が普遍化ではなく一般化に向かうものである以上、言語の方向へ向けた抽象化は、避けがたいだけでなく、必要でもある。
posted by いんぷうしゃあ at 13:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 言語基礎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月30日

つい最近、聞かれたこと。

「ソンナコトヲシテナニカノアシニナルノ」ってどういうこと?

よくわからなかったので、書かれたものを見てみると

「そんなことをして何かの足しになるの」

と書いてあった。

「ソンナコトヲシテナニカノタシニナルノ」

これならば、わかる。

言葉を学習する段階でよくある間違いとか、送り仮名の揺れとか「足」の多義性(ここでは微妙にずるを書いているが)とか、色々な説明があるだろう。

けれども、おそらくはほぼ確実に、その前に、その手前に、「足」というただそこにそのものとしてある存在があり、冒頭の質問を引き起こしているのは、学習者の日本語に対する知識の不完全性とか慣れのようなものでも、送り仮名の揺れと「足」の多義性がもたらす軽い読み違いでもなく、その、ただそこにそのものとしてある存在なのだ。

言葉について問われるべき問いはしたがって、「足」というただそこにそのものとしてある存在に対して、それを隠蔽するかたちで、上でのべたような「わかる」とか「よくわからない」といった言葉が当たり前に通用してしまうこと、「ナンノアシニナルノ」が言葉を学習する段階でよくある間違いとか、送り仮名の揺れとか「足」の多義性などで説明されてしまうこと、それは何なのか、であろう。

ところがこの問いは、「足」がただそこにあるものとして、「そんなことをして何かの足しになるの」が「ソンナコトヲシテナニカノタシニナルノ」ではなく、声に出すと「ソンナコトヲシテナニカノアシニナルノ」という音にまずなってしまうようなものとして存在していることに触れていない人にとってはそもそも存在しないし、提示されても意味がわからないものでしかない。

それにもかかわらず、この問いを問うこと。誰に話してもそもそもほとんどの人が「足」の存在に気づいていないし誤解を招いて不快に消耗するだけだからと言い訳してこの問いを問うことを避けるとき、本当は、「足」について、つまり言語について、「足」とか「足し」に吸収されてしまわざるを得ない言語というもので語ることの絶望的な困難が故にその問いを問うことを避けているだけであることは、ほぼ確実である。

その一方で、当たり前に言葉を使いながら、言語の自明性に埋もれて「足」に対してますます鈍感になっていく。

とはいえそれでもやはり、「足」に触れるとき、2年程前にふと届いたメールのように、そこにあるけれども絶望的に隔てられているものへの懐かしさに心がざわめき、裂けそうになる。

この先に、どう進むか。この先に進むことは、そもそも「先に進む」ことなのか。それともまったく異質のことなのか。

『瘋癲老人日記』の脚も、またそのようなものであった。
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2010年04月22日

Semiotics of Programming

Kumiko Tanaka-Ishii, Semiotics of Programming. Cambridge: Cambridge University Press, 2010.

つい先日、手元に届いた本。冒頭のAcknowledgementで名前をあげられる名誉に浴し、裏表紙にblurbを書いたため、いわゆる「利害関係者」であるとして学会誌などに書評を載せる立場にはなりえないだろうから、ここに書評めいたことを書いておこう。自分のブログに書くことの自由さを利用して、それも、おそらくは著者の意図とも離れて、いささか独断的に。続きを読む
posted by いんぷうしゃあ at 10:35| Comment(1) | TrackBack(0) | 言語基礎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月15日

この先生!


このせんせい、きのこれますか?

何かと思ったら、

この先生きのこれますか?

だった。

誰がどう見たって、「この先生、きのこれますか?」

いやー、このせんせい、きのこれます。今日も昨日も明日も。

美しい用法:
「センセー、キノコれますか?」
「いやいや、それほどでも」
posted by いんぷうしゃあ at 10:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語基礎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月13日

チュートリアル

3月8日にやった言語処理学会のチュートリアルの後処理(それにしても聞いてくれた人にとってあんなに言語処理と関係なくてよかったのだろうか)。
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posted by いんぷうしゃあ at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語基礎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月12日

言葉を想起すること

特定の表現に対して、それを想起するときに、「外の世界に書いてあるのを読む」ことがある。最近はずいぶん減ったけれど、依然として、ときどきある。また、音の場合には、「実際に耳に音が聞こえてくる」ことがある。これも確かに減ってはいるが。

それらは、「頭の中にイメージとして思い浮かべる」ことや、「頭の中で音を思い浮かべる」こととはまったく違う経験である。

(1) 脳科学でこうした現象は扱われているのか?
(2) このとき、仮に生理学的には、こうした「外に書かれているもの」を読んだり「実際に音が耳に聞こえてくる」のを聞いたりするのは、「脳」の何かだと言われるのかもしれないが、それらがかりに生理学的な「脳」の何かによるとしても、知覚に対して外にあるという点では、「脳」の外にある。

その関係を知覚/認識の側から書いてやることは、脳科学には定義上できない。
posted by いんぷうしゃあ at 14:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語基礎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月11日

言葉、3つ

言語について。(1) 神秘的に輝くもの。(2) 記号(定義上アウラを失っている)。(3) 他の言語に囲まれた中での物質的なモノ。

(1)と(2)は暫定的に一つの言語だけを想定するいつもながらの議論ですむ((1)はそれほど容易ではないが)。(3)は一つの言語を想定して「内部」と「外部」を語るときの「外部」(と言っても言語学では外部は語らないが)を具体的なモノとして経験した中で触知されるもの。
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2009年07月24日

固有名を憧れて

その言葉の相貌をそのものとして受け入れつつそれでもなおその言葉の質感にとって相貌が暗すぎるとか明るすぎるのではないかという理由から控えめに別の相貌を提案してみるわけでもなければ最初から言語道断なまでに醜く歪められているために思わず目を逸らしてしまうわけでもないのに、言葉をずたずたに切り裂き「要するにこういうこと?」ともとの言葉の相貌も質感も、したがって存在そのものもまったく虐殺してしまうような態度で言葉に接する人々にとって、世界はどのような姿をしているのだろう。とりわけ、存在の質感をすべて略奪し虐殺しながら、一方で人工的な世界を構築する意志も形式化の力も操作力も持たない人にとって、世界はどのようにあるのだろう。

たとえば他に何ら目的があるわけでもなく林を歩いていて、目についた植物やきのこの名前をふと口に出してしまったとき、「要するに毒キノコですね」という同行者の言葉に接して頭をもたげる同行者の世界はどのような姿をしているのだろうという疑問とそれは同質のものなのだろうか。

運動としてはほとんど感動することのないオリンピックの中で例外的にインスブルックでフランツ・クラマーが見せたそれ以外では決してありえない滑降のように、言葉が決してそれ以外ではありえないかたちでふとその存在を示したときに、どんな言葉も固有名となる。固有名は虐殺できないもののはずだ。

通勤途上、通りかかった小さな森から、コムラサキシメジらしいやさしい香りが漂ってきた。
posted by いんぷうしゃあ at 08:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語基礎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月15日

知識

事物によっては知ることを禁じるような知の体系と、それに対する反発。
posted by いんぷうしゃあ at 10:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語基礎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月08日

三省堂「ことばパティオ」

三省堂のウェブサイトに「言葉パティオ」というコーナーがあります。いろいろな人が簡単なエッセイを寄せるコーナーなのですが、その第22回(5月1日号)に、「乾いた言葉と戯れながら、言葉の香りを追憶する」というエッセイを書きました。

もうだいぶ前、確か加藤周一のエッセイを読んでいて、彼が熱を出したときいつも巨大な何かに押しつぶされる夢だか宇宙の空虚の中にいて圧倒される夢だかを見ると書いているのを見つけたことがあります(古い記憶を便りに書いているので、まったくの勘違いかも知れません・加藤周一それほど好きじゃなかったし)。実は、私もほぼ同じ夢を、熱を出したときに見ます(加藤周一の書いたことを勝手に自分の経験から捏造している可能性もあります)。たぶん、これは結構多くの人にあることなのでしょう。

さて、言葉パティオに書いたエッセイは、ほとんど他人に話すことのなかった経験です(これまで話してみるとまったく理解されず、不快になることが多かったので)。自分と同じような経験をしている人はいるもんだ、という方に賭けて、ちょっと書いてみました。このところ同じような話をかたちを変えながら、ちょくちょく書いています。

それから、無関係な補足ですが、researchmap.jpマイポータルを作成しました。そちらのブログに切り替えようか、と検討中。
posted by いんぷうしゃあ at 16:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語基礎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月07日

制度としての言語

抱えている二つの問題。第一。言葉の輝き。
もう一つ。言語の制度性。制度としての言語を超えようとすることそのものが制度になっていること。
posted by いんぷうしゃあ at 11:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語基礎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月09日

識別が必要なもの


  • 「生き生きした」(何て退屈な言葉だろう)と「生々しさ」
  • 単純化してモノを失ってしまう「抽象化」と具体性を露出させる「抽象化」
  • 私の経験は漢字あるいは日本語であるがゆえのものなのか。だとすると、最初に英語やキリル文字に接したときの踊るような肌触りは、それらをすでに漢字のように見ていたからなのか、あるいは普遍的なものなのか


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2008年06月08日

SMT(統計的機械翻訳)

日本の時間からみて9時間の遅れがある場所と7時間の遅れがある場所に10日を越えて滞在し、後半には体調を崩して帰国後してから数日経つにもかかわらずいまも風邪と時差に苦しめられているのをよいことに、めずらしく時間をかけて、かなり好きな作家である金井美恵子さんの作品にもかかわらず読んでいなかった---といっても読んでいないものはたくさんある----『噂の娘』を読んだ。続きを読む
posted by いんぷうしゃあ at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語基礎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月18日

山内志朗『普遍論争---近代の源流としての』

平凡社ライブラリーから補足つきで復刊。以前は哲学書房。以前よりもわかるが、何か、「そのもの」のまわりをどう回っているのか掴めるような掴めないような感じ。

本書から、便利な記号の定義を少しだけ。続きを読む
posted by いんぷうしゃあ at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語基礎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月12日

コミュニケーションと身体性

私が一番関心のある問題を形式化し、存立構造をモデル化して説明を与えようとすると、「人間」(フーコーの言う)以前のところで最低限の身体的な制約を与える必要がある。

このことには数年前から気づいていたのだが、まさにそれが大きな理由の一つとなって、自分の一番重要な問題については書くことを避ける状況が続いていた。

身体性の制約を理論に取り込むのがこれほどまでに嫌なのはなぜだろう。この点については、自分が問題を意識し言語化して考え始めた1980年代の時代性という点からも考えていたが、『言語』2008年6月号「コミュニケーションの身体性」特集で、神尾陽子氏の「身体性なきコミュニケーション」を読んで、大きな理由がはっきりわかった。

内容的にはそれはそれとして興味深い記事なのだが、例えば次のようなところ(ちなみにこれは要約引用的位置づけの文である):
通常の会話では、コミュニケーションは言語的要素よりもむしろ声の調子や表情、ジェスチュアなど非言語的要素に大きく影響される。ところがアスペルガー症候群の人々は、感情表現それ自体がなかったり、全く理解できないのではなく、対人場面という文脈において相手や彼らが属する社会文化的ルールに応じた方法で感情を表出することがないし、また理解することもないのである。(強調は引用者)

コミュニケーションにおいて論理性ではなく身体性を語る言葉を読んでいると、ときおり、このような、夜も眠れなくなるような不快さが伴う表現に出会う。

誰が「通常の」会話を判定するのか、また、「彼らが属する」のなら、社会文化的ルールには「彼ら」のふるまいはどうして入らないものと勝手に想定できるのか。誰が?

(私にとって)身体性は、論理的な疑いがついに疑うところまで行き着くことさえできないことを論理的に追求しきったのちに、論理的要請として導入されるべきものであり、「みんな(みんなとは、誰だ!)身体性を伴なってコミュニケーションしている、それは当然だ、だからコミュニケーションには身体性が重要だ」という全体主義的トートロジーの中で安直に語られるべきことではない。

後者のような言葉が流布している中で、身体性に言及することを想像すると、やっぱりやめた、と判断せざるを得ない。
posted by いんぷうしゃあ at 10:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語基礎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月28日

ヴァレリーとバルト

ヴァレリー『ヴァリエテ』

バルト「記号学の原理」(沢村昂一訳・みすず書房『零度のエクリチュール』)

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posted by いんぷうしゃあ at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 言語基礎論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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